嫌われたくないけど、気を使うのは面倒くさい

私は、気を使うということが昔からどうにも苦手です。

だから、細かいところまで気をつかっている人は単純にすごいなぁと関心してしまいます。

 

とはいえ、私もTwitterでは「◯◯さんと◯◯さんが見てるかもしれないから、ツイートしないでおこう」とかやるときもあるので、気を使う気持ちが無いわけではないと思います。

ただ、わたしの場合、途中から気を使うのが面倒くさくなったり開き直ったりして、結局気を使うのをやめてしまうことが多いです。

そういうときの私はたぶん傍若無人になっているんでしょうね。。。

 

他人からどう思われたいという気持ちがない

気を使うときのこころの状態っていうのは、「こう思われたい」という気持ちがあると思うんです。

「親切な人だと思われたい」からお年寄りに席を譲ったり、

「かわいいと思われたい」からお化粧やファッションに気を使うと思うんです。

 

私の場合は、「社会のマナーだと思うからやる」とか「みんなやってるからとりあえずやる」といった感じで、特別「こう思われたい」という気持ちがあってやっていないわけです。

結局のところ、「どう思われても良いや」ということなんですね。

 

実際どう思われているのかには興味がある

さっき「どう思われても良いや」と言いましたけど、実際にどう思われているのかにはすごく興味があります。「嫌われてないかな」とか不安になることとかしょっちゅうです。

人の心がのぞけるならのぞきたいですね。今どう思われてるんだろうって。

みなさんそんなことないですか?

 

「嫌われていないか不安になる気持ち」を打ち消すもの

たぶん気を使う人だったら、嫌われないために対策をすると思うんです。

嫌われないために、お化粧がんばったり、服装をきれいにしたり。

そういう対策をして、「嫌われていないか不安になる気持ち」を打ち消しているんじゃないかと思っています。

 

逆に、私みたいなのはそんな対策もせず、面倒くさいから努力を放棄してしまいました。

だから「嫌われていないか不安になる気持ち」を打ち消すものはなにもないんです。

その気持ちをかかえて、あるいは見ないふりをして生きています。

あー、つらいつらい。

 

面倒くさいものは面倒くさい

面倒くさいものは面倒くさいんです。はい。

でも面倒くさくてもやることってありますよね。

シャワーするとか、洗濯するとか。

なので「他人にどう思われたいのか」の優先順位が低いんです。

面倒くさくてもやらないといけないほどではない。

私の中ではそんな感じなんです。